前回の記事で触れた、「評価差解消」というエピソードパターンの存在に気付いたことに端を発する、派生的なお話。
正確には、今回の話を掘り下げた結果、前回記事における読書体験設計フレームの改訂内容が明確化したという順番なので、本来の思考順序としてはこっちが先なのだが、分量を考慮して分割して後ろに回した。
いつも通りに身も蓋も無く行こうと思う。
1.前回のおさらい
前回記事で説明した通り、発端はこうだ。
生成AIさんとの対話の中でふと「読書体験設計フレームを使って、昨今の一般的なアニメや漫画を分析したらどうなる?」と問いかけてみたところ、まずは妙な返答が返ってきたことからだ。
んで、生成AIの返答をよくよく追いかけてみれば、「主人公がどう評価されるか?」がエピソードの駆動輪になってる、という主張であったので「ああ、そうか」と気付いて、そこを掘り進めた先で「評価差解消」というエピソードパターンに行き着き、先に挙げた変更点に至った、という流れである。
確かに世の中の創作物のストーリー展開を思い返してみれば、多かれ少なかれ「キャラクターがどのように評価されるか?」という点が駆動輪の一つになっていることに気付く。
「コミュ障気味のキャラが仲間として受け入れられる」なんてのは良くあるパターンだし、「元々敵側に属していたキャラが、何らかの事件を通じて信用を得る」なんて展開も定番中の定番だろう。
んで、まさに生成AIが想定していた「昨今の一般的なアニメや漫画」は、いわゆる「なろう系」「異世界転生系」と呼ばれる、「主人公が普通に持っている知識やスキルや道具が、別の世界では超強力な効果を発揮するので無双できちゃう」タイプで、これも突き詰めると「最初は軽んじられていた主人公が無双することで評価がひっくり返る」が基本形であるわけで、これも「評価差解消」が駆動輪となっているわけだ。
その気付きで終わっていれば平和なのだが、その程度で済ませるような筆者ではない。
こんなのはまさに最初の足掛かりである。
2.正当性保証コンテンツ
いわゆる「なろう系」「異世界転生系」を評論した言説ってのは色々と転がってるわけだが、その主張は大体がこうだ。
- 主人公への自己投影・同一化
- 願望充足
- 承認欲求の代理充足
- 優越感
- 「ざまぁ」によるカタルシス
- 読者にストレスを与えず、定型的な快感を反復する
まあ、そういう側面もあるだろうが、しかし今回気付いたのは、それとは少々中心をズラしている。
上記の主張では、「主人公=読者」というモデルに立っており、「主人公が認められること=自分が認められる=承認欲求充足」という説明になる。
ただ、これらの説明で不足しているのは「別に『なろう系』や『異世界転生系』じゃなくても成立してない?」というツッコミへのアンサーだ。
自己投影するだけなら、主人公が強い物語なら何でも可能じゃない? という話になる。境遇がどうこうという追加説明に対しても、じゃあ君らはそこまでのジャストフィットを求めてるのか? という話であり、本当にそんなジャストフィットする読者がたくさんいるということなの? というツッコミを誘発する。
多くの評論はそこまで自分を追い詰めないので、そのへんはお茶に濁される。
そこで「評価差解消」というファクターを持ってくるとどうなるか。
上記のモデルでは「主人公が有能だから、読者も自分の有能になった気分が味わえる」という説明になるが、そうではなく、
「主人公の有能さを読者だけが最初から理解しているので、読者が『正しく人を見ることのできる人間』として振舞える」
という充足感が生じることになる。
これは既存の「自己投影」「承認欲求」「願望充足」あたりでは拾えない快感構造なのだ。
正確に言えば、「承認欲求」が最も近いわけだが、しかしその承認の形が「読者の目利き能力を作品内の展開が承認してくれる」という、良くある使い方とはちょっとズレた承認なわけだ。
少々意地悪な言い方をすれば、「目利き能力に憧れるけど、それを身に付ける努力は払いたくない人に、目利きになった気分を届ける」という意味での「願望充足」構造である、という見方も出来る。
いずれにせよ、もう少し抽象化してみれば、「『読者だけが正しい側に立っている』ことを保証してくれる」という構造でもって読者に快感を与えているのだ。
正当性保証コンテンツとは、こういうことである。
「ざまぁ」が成立するメカニズムも要するにはこういうことだ。
何らかの結果の期待値を抱いている側が、その結果が実現して評価が確定したことに対して、「それ見たことか」と優越感を感じた様を一言で言い表したのが「ざまぁ」である。
「アナタが最初から正しかったんですよ」を差し出してくれる構造のコンテンツである、と考えれば、「なろう系」だの「異世界転生系」だのの説明ももう少し変わったものになることは理解できただろうか。
単に「主人公が有能である」だけではダメで、評価軸の転換などを通じて、「その有能さが最初は理解されず、後になって理解される」という構造が読書体験のコアになっている、と考えてみると良い。
さて、ここで少し話題を他に向けて考えた人もいるはずだ。
この構造って別に「なろう系」や「異世界転生系」といった文章コンテンツ以外でも見受けられるのでは、と。
その通り。
これは何もニッチなジャンル特有の構造ではない。
大衆向けコンテンツでも非常に良くある構造だし、何よりネットに溢れかえる大半のコンテンツがこういう構造になっている、のだ。
さらに言えば、詐欺やペテンにおける基本構造でもあるし、自己啓発系セミナーを入口とする信者ビジネスなんかでも同じ構造は見られるし、正しく使えばメンタル不調の治療にも使われることだってある構造なのだ。
それほどまでに「正しい側に立っていることの保証」を多くの人が欲しがっている、と言えてしまうのだ。
3.コンテンツを売るために正当性不安を煽っちゃう人たち
「正しい側に立っていることの保証」を多くの人が欲しがっているということは、それが「売り物」に成り得る、ということを示している。
これはまさにマーケティングの基本みたいな話である。
そうすると、これまたマーケティングの話としては、「欲しがる人」に「商品を届ける」がビジネスになってしまう。
ならば、じゃあどうやって「欲しがる人」を見つけようか、という理屈が自然に立ち上がってしまう。
そしてこれは、地道に「欲しがる人」を探すよりも、そのへんの人に「欲しがる人」になってもらえばいいんじゃない? という、ともすれば商売のモラルをブン投げた発想にまで容易に繋がってしまう。
もうここからは、竹ひごとゴムぐらいにシンプルな動力機関の構造の話である。
「正しい側に立っていることの保証」を売るために、それを欲しがる人を増やしたければ、どういう作戦を思い付くでしょうか?
はい、その通り。
「自分は正しい側に立っているのかしら?」と不安に思わせることが出来ればOKですね。
正当性不安を煽っちゃうわけです。
ここでの「正しい側」というのは、まあ色々な「正しい側」が成立できる。
「社会通念的な正解がある」のなら、その「正解を知ってること」が「正しい側」だ。
「世間的な流行」もまた一つの「正解」として扱えるので、「正しい側=流行に乗っている側」だ。
「ネットで話題」なんてのも「流行の亜種」として扱えるだろうね。
「ノウハウ」「ハウツー」「成功法」みたいなのは、正当性保証コンテンツの4番打者商材である。
そう、ここでの「正しい」は、教科書だの辞書だのに記された「公的な正解」である必要は全く無く、あくまで「その界隈での正しさ」で充分なわけだ。
いわゆる「『みんな』が採用している『正しさ』」程度で充分に用を足してしまうのだ。
ものすごく身も蓋も無く言ってしまえば、「勝ち馬に乗りたい人」に「勝ち馬」を差し出してあげてるわけなので、その「勝ち馬」そのものの正当性なんてのは、そこまで厳密じゃないことは理解できるかと思う。
そんなだから「不安を抱かせる」手法も、まあそこまでクリーンさを求められていないのが現代である。
タイムラインにとにかく「これがトレンドっすよ」「みんなこんなに楽しんでますよ」を流しまくれば、それだけで勝手に「自分は正しい側にいるのかしら」と思ってもらえる可能性が高い、というマーケティングデータがあるのかどうかは知らんが、結果としてSNSはあんな有様になっている。
ネットメディアが選びがちな言い回しだってそうだな。
「今や〇〇は常識」とセットにしておけば、「聖闘士に同じ技は二度通じない」という事実と全く異なる主張すら、場の勢いで押し通せてしまったりするため、多くのメディアはフェニックス一輝メソッドを愛用している。
「今の若者はすぐに正解を欲しがる」みたいな話がしばしば持ち上がるが、これも単純な「正解をインスタントに知りたい」という知的怠惰として読むのではなく、彼らが欲しがっているのは「正しい側に立つという安心」ではないか? という読み方も出来るわけだ。
そしてそのように読めば、若者にそのように思わせているのは教育の影響だけなのか? という疑問だって自然に立ち上がるはずだ。
正直、事実関係などは知ったこっちゃないが、構造を読めば割と簡単に行き着ける仕組みで、こんな簡単に行き着ける以上、それに誰も気付いてないとは考えにくい。
何より、こういう手口が世の中にあることをボンヤリとでも聞いたことがあれば、後はどこにどれだけ採用されてるのかな、といった話である。
4.そして、情報リテラシーへ
少し前にこんな記事を書いたが、そこで言ってる話に繋がる。
世の中で情報リテラシーと言えば、とりあえず「ファクトチェック」で事実かどうかを調べましょう一択なわけだが、ここまでの話からすると、それだけで果たして防御できるか? と思った人もいるだろう。
先日の記事においても、ファクトチェックよりも前に「誰がどんな思惑でそれを発信しているのか」という背景に着目しましょうね、という話を説いた。
そこで、生成AIを用いて「主張のメッキ剥がし」を行うためのプロンプトも紹介した。
今回ここまで考察した内容により、このへんの話が一段アップデートされることになる。
「正当性不安を煽り、正当性保証コンテンツを提供する」という手法に対する防御を初手にカウントすべきではないか、という提案である。
「ファクトチェック」では何故不十分かと言うと、いくら注意していても、どうしても「自分が見たいものを見るし、自分が聞きたいことを聞いてしまう」のだ。
自分の主張に合った情報を探してしまう、という罠に自らハマると、どうしても「自分の支持する主張に都合の良い『ファクト』を採用しちゃう」のだ。
正当性不安を抱えさせられた状況下で、正当性を保証するコンテンツが差し出されたとして、さあ、そのコンテンツをニュートラルに評価できるだけの『ファクト』を正しく探し出せる自信がありますか? という問いかけである。
ちなみに情報リテラシーの話題において、「自分は絶対大丈夫」と思い込んでる人が一番危ないというのも、その「大丈夫の根拠」に、ファクトチェック以前の態度が含まれていないからだし、そのへんが全然リテラシーの話題で登場しないからである。
何故登場しないかは、ファクトチェック以前に言及すると都合が悪い人が多いということだろう。
そういうわけで、そろそろ畳みにかかろうか。
情報リテラシーのステップはまとめると、以下の4ステップが望ましいと言える。
【ステップ0:正当性欲求の内省】
「なぜ自分は、この結論を正しいことにしたいのか?」
【ステップ1:レトリックチェック】
「この情報は、自分をどの方向に誘導しようとしているのか?」
【ステップ2:論理と推論】
「提示された事実から、本当にその結論が導き出されるのか?」
【ステップ3:ファクトチェック】
「そもそも、その事実は本当なのか?」
何度も繰り返している通り、ファクトチェックなんかは一番後回しである。
それほどに、その前にいくつもの罠が仕掛けられている、ということだ。
逆に言うと、本当にファクトチェックだけで何とかなる誤情報というのは、前段の罠が一切無い「極めてフェア精神に溢れる、純真な誤情報」に限られる、ということだ。そんな誤情報だけを想定した情報空間、世の中のどこにあるのか教えてくれ。
ステップ1の「レトリックチェック」というのが、前回の記事で紹介したような「メッキ剥がしプロンプト」なんかも活用して、どういう思惑で発信されたのかに思いを馳せるステップである。
ステップ1と2は、ほとんどセットと見て良い。これも論理や推論であるので、生成AIの補助を使って良いだろう。
まだまだここでは情報そのものの解体と検証を行うステップであり、完全に字面だけを相手に出来るからだ。
ここまで前処理が済めば、ステップ3のファクトチェックにも役立つだろう。
その情報の主張のコアが剥き出しになっていれば、事実関係をチェックするポイントも自ずと絞り込みやすくなるからだ。場合によっては、表面的な話題とは別の、本当に確認すべき情報ソースが浮き彫りになるかも知れない。
最後にステップ0が、今回取り上げた「正当性不安+正当性保証」の領域である。双方をまとめて、さらには受け取り手の欲求が作用するものであるから「正当性欲求」とした。
これは完全に内省力やメタ認知が要求されるステップで、「そもそも自分が欲しがってる結論って何?」に少しは目を向けましょう、ということだ。
ステップ0としたのは、「正当性欲求」が見落とされがちであり、ここがガバガバだと、以降のステップが全部「正当性保証」に巻き込まれてしまい、リテラシーも何も無くなってしまうからだ。
この4ステップが機能している人の情報リテラシー態度はどうなるかと言えば、
「自分は普通に騙される。だから自分が今どんな正しさを欲しがっているかも含めて確認する。」
ということになる。
こうやって見ると、情報リテラシー能力というのは、ただ単に「正しい情報を選別する能力」ではなく、「情報・レトリック・推論・自己の正当性欲求をまとめて観察する能力」と再定義することが出来る。
ものすごく能力範囲が広くなるし、その能力が向かう先に自分の欲求も含まれるので、メタ認知を含んだ能力、ということになる。
単にファクトチェックだけを要求するのに比べてハードルが上がったと感じるかも知れないが、とは言えここまでを辿って気付いたかも知れないが、専門知識は何も要求していないのである。態度の問題が大半なのだ。
少し補足をしておくと、「正当性欲求から解放されてる」ような人の場合、ステップ0の負荷が小さくなる。
「正しい側に立つ」ことに追い立てられてないと言うか、そこまで価値を感じていないような人だと、「ほらほら、こっちが正しい側ですよ~」の誘導が効きにくいことは理解できるだろう。
なので、トータルとしての負荷量は常日頃のスタンスでも変わる、ということになり、「態度問題である」というのはこのへんからも導かれる。
とは言え、「正当性欲求を完全に消す」のはさすがに難しいので、目標点としては「『正しい側にいなければならない』という欲求と、自分の情報判断を切り離せること」と捉えておけば良いだろう。
現代の情報環境を指して「情報過多」が問題となっているという主張は山ほど転がってるが、ここまでを辿ると「正当性不安過多」の方が正確なのではないか。
「現代の情報環境では、情報量そのものよりも、情報に接した人間の『正しい側にいたい』という欲求が、コンテンツ・プラットフォーム・メディア・情報商材・自己啓発などによって継続的に刺激・商品化されているのではないか」
こんな仮説を中心に置くことで、情報リテラシーの在り方ってのが大きく変わるでしょ、の実例が今回の記事である。
情報空間における「正しい」自衛力ってのがどんなもんかは一概には決められないのだが、まあ少なくとも「自分が考える正しさ」というのは他人任せにするのではなく自前で持てるようにしたいよね、ということだ。
その正しさを保証してくれるコンテンツは無いのかって? 論理が循環するからダメです。


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