前回記事で少し触れた、Webのみならず色んなところに侵食してる「わかりやすさ」の罠について語っておこう。
「バカにもわかる」と「バカ向け」は別物
何かもう定説化して久しい感じの「わかりやすさ至上」だが、いつからそうなったかは特に記録も残ってないだろう。
ただ決して天地開闢からそうであるわけではなく、さらには近代日本だなんだという壮大な話でもなく、割と最近、それこそネットの大衆化と大体時期は重なる。
いつの頃からか、誰でもわかりやすい文章を書きましょうという、国語教育的主張が、ネットビジネス文脈として語られるようになったわけだ。
まあ確かに、この主張そのものは間違ってはいない。
が、100点の主張かと言えば、実は40点ぐらいでしかない。それすらもお情け△ぐらいの採点ではなかろうか。
何が悪いかと言えば、適用条件が言及されていないから、である。もっと具体的には、「誰でも」の「誰」って、どういう「誰」を言ってますか? という話である。
国語の授業の教室でなら、その場には既に何らかの前提条件が内包され共有されてるから、比較的に雑な定義であっても便宜上は問題なく通るのだが、それこそネットのように不特定多数が目にする場では、そうはいかない。
本来的には。
とは言え、残念ながら、世の中は「本来」様の出る幕というのが想像以上に限定されているので、40点ぐらいの主張であっても通ってしまうことは普通にある。
さらにこれが何らかの思惑や利害関係が背景にあれば、言わずもがなというものだ。
もちろん、最初から思惑があったとは限らない。
しかしながら、当初は崇高で純粋な願いが、そのうち利害関係に塗れて原型を留めなくなった、なんて例は歴史を辿ればいくらでも見つかるだろう。
最初は確かに、ネットで情報発信するに当たって、その品質を出来るだけ高めたいよね、という提言だったかも知れない。
誰でも発信が出来るようになったことで、特に何の訓練も通っていない人も発信出来るようになったということで、その訓練そのものでなくとも、せめて個別努力のトリガーにならんとする提言だったかも知れない。
ところが、あるポイントでこの「正しい」提言が歪む。
「バカ」の流入である。
少々強い表現を使ってしまったが、もう少し広い言い方をすると、スマホの普及からネットの大衆化が起きて、受け手の読解力の期待値が下方向に大きく広がってしまったのだ。
これにより、求められる「わかりやすさ」の難度が一段上がったのだ。
本来的には。
そもそも、文章のわかりやすさとは何か。
これを使う語彙の日常性や、センテンスの長さとしか捉えていないとすれば、これまた申し訳ないが40点の理解である。
そんなのは枝葉もいいところで、本質は何かと言えば、文章なんてのも結局はコミュニケーション形態の一つなのだから、そこに込められた主張なり情報なりが伝わるかどうかを言う。
伝わるかどうかを左右するのは、枝葉の表現技法論などではない。それよりも前に、双方の知識や知能という大前提のマッチングが出来ていないと話にならない。
同じ国に住んでいて同じ教育水準の元で大人になり、日常会話が通じていれば、大体は横並びと思いたい人もいるかも知れないが、そんな虫のいい話があるわけ無かろう。
まあ確かに日常会話程度ならば、一見すると問題なく通じていると見えることは多い。ただし、それが常に十全かどうかは保証されない。実際には全然伝わっていないのを、表面上は角が立たないようやり過ごした、なんて経験は誰しも少なからずあるだろう。
日常会話ですらそうなのなら、まとまった量の情報伝達だとどうなるか。
これは表現云々とは異なる次元であることは理解出来るだろう。より正確に言えば、表現でどうにかなる範囲には限界がある、と。
それが理解出来れば、「バカにもわかる」ように、という少々強い言葉で言われる「わかりやすさ」の限界も理解出来ると思う。
コミュニケーションには、情報が伝わる濃度とでも言うべきものがある。書き手や話し手が伝えたかったことがどれだけ伝わったか、を濃度と呼べる。
最も濃度が高く出来るのは、極めてローカルに、まさに当事者同士でのみ通じる表現で語られたケースだ。そこでは互いに共有された合意は、特に問題ない限りは大きく省かれたりもする。そのような信頼関係ありきで、高濃度なコミュニケーションが実現される。
しかし、あまりにもローカルが過ぎても実用的問題があるとなれば、もう少し伝わる範囲を広げる。省略していた暗黙の了解にも言及し、あまりにも一般的でない言い回しは平易に置き換える。こうして「わかりやすく」する代償として、コミュニケーションの濃度は少し落ちる。
これを繰り返していくと、起点の書き手や話し手とは縁もゆかりも無いような「誰でもわかりやすい」に至るわけだが、その濃度はどうなっているだろうか?
「わかりやすさ」の原理は、指折り順番に考えれば当たり前にこういうことである。
と言うことは、「バカにもわかる」ようにすることで何が起きるかも理解出来るだろう。
ここで言う「バカ」の含意とは、学力を問わずということで、対象を可能な限り広げたい、ということを言っている。想定される対象層の可能な限りの底辺まで、ということを言っている。
さて、「わかりやすさ」を求めていくとコミュニケーション濃度が落ちる。しかし、伝えたいことは何とかして残したい。しかししかし、相手の前提条件の程度が掴めないほどに対象は広がっている。その条件下で正しく伝えようとすると、前提条件ごと届ける必要がある。すると伝達量が単純に大きくなり、受け取れない相手は「誰でも」から外れてしまう。
ここまで言えばさすがに「誰でも」理解できるだろう。
本来的には、「バカにもわかる」は、超絶に難しいのだ。
ちなみにこの標語的な指針の出処は、おそらくは広告におけるそれを引用してきたのだと思われるが、広告ならば確かに成立可能だ。と言うのも、広告一つの情報伝達量というのが、そもそもからして恐ろしく限定されているからだ。さらに目的もハッキリしている。
文章や主張などとは、土俵そのものが違うのだ。
誰でも発信が出来るようになり、特に訓練も受けていない発信者にとって、この超絶難しい「バカにもわかる」は簡単に実現出来るものだろうか?
単なる心がけにしても、あまりにも目標が高すぎるのは、それこそ「誰でもわかる」のだが、ここでまた次なる歪みが到来する。
「バカ向け」への転移である。
真面目に、真正面から「バカにもわかる」を実現しようとすると、あまりにも難度が高い。何より伝えたい内容のレベルに上限が発生する。濃度が薄まりすぎると、伝えたい部分のコアが残らず溶け切ってしまうのだ。
さらにそもそもの絶対条件として、一定以上のレベルの主張なり知識を持っていないと成立できないのだが、それこそ「誰でも」出来るものではない。
ならばどうするか。
濃度は落とさず、大した主張や知識も持たず、「バカ」階層にリーチしたい。幸いにしてこの階層は充分な頭数が存在してるらしい。
そうだ、そもそものターゲットをシフトすればいいじゃない。
起点を「バカ」に置いた「バカ向け」の記事を書けば、それを広げることでギリギリ一般層の下半分も対象に出来るんじゃないか。大した主張なり知識がなくても、ターゲットが低ければ書けるじゃない。
そういうことを誰かが、あるいは同時多発的に多くの人が考えついたのは、自然な成り行きだったのか、あるいは何らかの思惑や利害関係の賜物か。はたまた単純に、読者層のレベル帯の下限が広がったのと同じく、発信者層もレベル帯の下限が広がった結果とも読み取れる。
折しも、Webライターという稼ぎ方が持ち上げられ、二束三文のライター仕事が大量に流通したのは、まさに「誰でも書ける」「バカ向け」記事というメソッドの完成無しには語れないだろう。
で、このへんはまさに、先日の記事で書いたところの、スケール志向ともジャストフィットする話でもある。
そしてこれにて終着点かと思ってたら、どうも次があったらしい、と気付いたのは、ここ数年の話。
そして「バカを期待する」へ
「バカ向け」に手を染める人ばかりになるとどうなるか?
まず、マトモな言説はまさに物量によって駆逐される。ここで集合知が機能しなかったのは、今のネットを見れば一目瞭然であろう。
「バカ向け」はさらなるバカを育て、本職すらも「その方が効率が良い勝ち筋である」と判断すると、率先して「バカ向け」の書き手を増やす。やがては市場が「バカ向け」で飽和する。
市場が飽和すれば「バカ向け」であることが差別化要素として機能しなくなるが、ところが悲しいことに「バカ向け」に最適化し過ぎたために、それ以外のレベル向けの記事が書けなくなる。朱に交われば赤くなる、というやつだ。ミイラ取りがミイラになる、という言葉もあるな。誠に残念なことに、知性が必ず保存されるとは限らないのだ。
そうなると、もはや書き手としては、「読み手がバカでないと困る」状態に陥る。教科書通りのメソッドに騙されてくれることを願うしか無くなる。そういう読み手ばかりである前提から抜けられなくなる。
こうなった言論空間というのは、それこそ10年以上同じネタを繰り返すしかなくなるわけだ。読み手を信じられないから新しいことを提案出来ず、書き手を信じられないから新しい提案を突っぱねる。ただ永久にモラトリアムが続く場である。
賞味期限は早々に終わったまま、読み手がバカであることを期待して勧め続ける、そういう場である。
今のネットはそうではないと思えばそうではないし、そうであると思えばそうである。
こんなもんはどちら側に立っているかのリトマス試験紙のようなものではあるが、どういう現象が起きていて、誰が得をしているのか、ぐらいは気にしておいて損はない、
その「わかりやすさ」は、誰のためですか?
ネットにおける「わかりやすさ」の発生過程をここまで指折り順番に、現象から逆算してみたわけだが、そこに通底しているのは、ネットにおいて支配的なスケール志向の市場論理であることは、ネットを埋め尽くす数多の情報から嗅ぎ取っている人も多いはずだ。
発信者は「ユーザーのため」という模範解答を持ち出してくるのは間違いないが、そんなもんは誰も信じないだろう。本当に模範解答通りなら、検索汚染という現実など起きているはずがなかろう。
スケール志向のメソッドとして持ち出された「わかりやすさ」というのは、ユーザーのことなんか1ミリも慮っていないのである。ユーザーに期待するのは反応であり数字であり、その意味において「理解力を期待していない」のだ。
そして至る所で起きているのは、雑なバリアフリー工事みたいなもんである。
バリアフリー工事ってありますわな。
その多くは、例えば階段にスロープを併設したりする工事だ。
ネットに蔓延る「わかりやすさ」というのは、ぶっちゃけると「階段の三段目までを壊してスロープ化する」ようなモンである。
書き手が提供できるレベルまでをさらに薄めて「わかりやすく間口を広げ」、しかし一定レベル以上は市場論理外だし書き手も扱えないので手を付けない。
そうすると、確かに最初の三段目まではスロープ化され、そこまでで「わかったつもり」になれて満足する人は増えるのだが、元々の四段目とは繋がっていないので、元の階段には無かった絶壁が立ち上がってしまう。
階段のままなら多くの人が通れたのに、雑なバリアフリーによって、むしろ誰も登れない階段と化してしまう。
結果として、スロープ部分で立ち往生する人が多数発生するだろう。
おお、これは「そういうレベルの客」をターゲットにしたい人にとっては、理想的な状態かも知れないね。
その「わかりやすさ」で誰が得をするのか。
これこそが実は情報リテラシーの一丁目一番地なんだけど、どうもネットではそうなっていないらしい。
送り手、受け手ともに、「わかりやすさ」ってのは、常に必ず優しいモノとは限らないんですよ。
ターゲットを絞って、対象外は対象外と割り切った上で、その中での「わかりやすさ」を心がけるのが、ユーザーに対する誠意ってモンでしょ?
そもそもね、対象外もあるからこその多様性ってモンじゃないですか。


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