生成AIチャットで日々色々と議論を重ねていると、何とかしてこれを記事に転用できないかなあ、と思う人も多かろう。
わざわざ記事を書くという独立した個別作業ではなく、日常的な疑問解決という一連の意味ある活動の副産物となれば、それを有効活用したいと考えるのは、非常に理に適っていると言える。
実際、noteなんかでもそういう記事は多数見かける。
が、特にnoteにおいては、そういう記事は大体失敗している。何を以て「失敗」というか、であるが、少なくともnoteにおいては、会話をどのようにしてフラットな文章インターフェースで表現するか、という勝負になり、ほとんどのケースは会話ベタ貼りで終わっており、読み物として成立できていないからだ。
その点、文章インターフェースの視覚的表現力においては、WordPressなどを使った個人サイトの方が一枚も二枚も上だ。
WordPressでも吹き出し表示用プラグインなんてのがあるので、それを使うだけでもチャットを読み物に整える上では大きなアドバンテージが得られる。
とは言え、しかし、それだけで何とかなるほど甘いものではない。
これは映像コンテンツを題材に考えればすぐに判る。
テレビなどで生放送のフリートーク的な番組がありますわな。
ああいうのがコンテンツとして成立するのならば、自分でも出来るんじゃないかしら、と思った人たちがYouTubeで同じようなコンテンツに挑戦するわけです。
多くは死屍累々ですよね?
当然のことながら、ああいうのが成立するためには、まずは話し手自身がコンテンツ化してることが大前提なんですよ。つまりは有名人化してないと、話すら聞いてもらえないわけです。
残念ながら、世の中は「何を言ったかよりも誰が言ったか」の方が未だに根強いんです。
「誰が言ったかよりも何を言ったか」が成立するためには、個々人が独立した評価能力を有していることが前提で、いいねの数字を有難がる勝ち馬乗りの社会だと、これが成立できないわけです。
故に、有名人でもない身の上で、生成AIとのチャットをそのままで貼り付けたところで、単純にはコンテンツ化出来ない、という地点からスタートする。
それならばと、同じく映像コンテンツにヒントを求めてみれば、生放送ライブではなく、編集されたトークコンテンツというものも当然ある。こうなると話が一段シフトする。
というのも、編集によってコンテンツの「面白さ」の重心を、トークそのもの以外に求めることが出来るようになるからだ。素人を集めた番組が成立できる理由の一つである。
そしてこれは、いわゆる「やらせ」とも隣り合わせになる理由で、その本人だけでは面白さを担保出来ないから、作家の作った台本が用意され、演技指導に相当する指示が入り、そうやってコンテンツとしての品質を底上げして面白さを担保しようとしているわけだ。
文章メディアにおける対談記事やインタビュー記事も同様だ。
直接の会話をそのままテープ起こししただけでは、まさにライブキャプションそのものでしかなく、それでは生放送配信と何ら変わらなくなってしまう。
そうではなく、文章コンテンツとして成立させるために、やはりここに編集や脚色が入る。まとまった会話ブロック自体を削ったり、順番を入れ替えたり、語尾や言い回しも調整して「読みやすく」整えるといった加工が施される。
しばしば話題に上がるこの手の記事でのトラブルと言えば、編集が恣意的すぎて、もはや本人の発言が塗り替えられて捏造記事レベルになった、という話だろう。このへんも要するには、そのままでは「面白さ」が担保できないという判断から起こることだ。
とまあ、既存の「会話」を扱ったコンテンツがどのようにして成立しているかを紐解けば、生成AIとのチャットを記事に転用する際のポリシーも自動的に浮かび上がってくる。
一に編集、二に編集、三四が無くて五に編集(←古典的テンプレ)、であろう。
有り体に言うと、相応に手間暇をかけろ、でしかないのだ。当たり前すぎてつまんないけど、結局はそうなのだ。
そこを何とかなんねえの? と食い下がりたい人も多いだろう。
それほどに、生成AIチャットとの議論は、素材としては魅力なのである。
いわゆる「まとめ記事」とは一線を画した、一テーマに絞られた邪魔の入らない会話ログと見えるからだ。
さらには、生成AIさんが時には調査結果をまとめてくれたりもする。
自分の考えを一段上のステージに上げてくれたような気にもなる。
何より冒頭でも触れた通り、あくまで副産物と来ている。
そうは言っても、ここまで冷水散布していることからも判る通り、個人的には難しいよなあ、と強く思っている。
なので、気は進まんものの、それでもちょっと実験してみようか、というのが今回のお題です。
結論とサンプル
ちょっと待て、いきなりだなオイ。
いや、当初は実際のチャット結果をペタペタ貼った素案をいくつか例示しようとしたのだが、ダメなのが判ってるのを並べてどうすんのよと自己検閲が作動して、結局はこの件について生成AIさんと議論を始めてしまったのだ。
まず、WordPressプラグインの吹き出し形式を使うのは有効。会話表現として実に直感的だ。
ただ、それだけで「編集できた感」が生じる麻薬的作用は否めないので、会話内容に対する編集という手間暇は必須レベルと考えることにする。
続いて課題として挙がったのは、やはり生成AIの回答分量である。事前に指示していないと、まあ大体はものすごい分量の回答を打ち返してくれるので、それと人間側の発言量とのバランスが、生ログのままではよろしくない。
人間の質問にAIがドバっと回答をくれる人生相談室的なコンテンツを狙わない限り、やはり何らかの編集が必要である。
回答を小分けにするとか、人間側の発言を事後で編集してボリュームを揃えるなどだ。
ただこれも、下手に手を加えると会話に不自然さが生まれかねないので、手軽さはやはり落ちる。
そこで思い付いたのが、二段構え方式である。
会話を元に記事化するアプローチは、まあ誰もが一度はやったことのある手法だろうが、さらに次を設ける。
会話を元にした記事を素材に、キャラ同士の会話として再構成してもらうのだ。
こうすると、内容の骨子は保持した上で、回答の冗長さをシュリンクしつつ、やり取りも適度に分散された会話として編集される。
あとはまあ、その際のプロンプトで、それぞれにキャラ付けを行えば良いのだ。
だがしかしよ、それって昔からある「何らかの主張をキャラ同士の会話に落とし込む」手法そのままで、それを生成AIチャットに適用しただけという説もある。
まあその通りではあるが、とは言え、生成AIとのチャットを素材として記事化するアプローチとしては、要約と会話化という二つの手順を経由している分、生成AI臭さは相当に脱臭できるのではないか。
また、それをベースに人力編集する素材として見ても良い。キャラ付けだけは人間がやってしまえば、もうその時点で生成AI介入感はほぼ消せるだろう。
と言うことで、ちょっとやってみたサンプル。
例によってそこそこボリュームなので隠す。
サンプル
なんか、自分の書いたもの出すのって怖いですよね。
受け入れてもらえるかどうか、すごく不安で。
それは普通ね。誰でも怖いわ。
でも、SNSとかで平気でバンバン出してる人がいっぱいいるじゃないですか。
ああいう人ってどうなってるんでしょう。
あれはね、よく見てみると、流行りのやつを追っかけてたり、みんなが好きそうなものを出してたりしない?
実はそういう人たちって、受け入れてもらえるかどうかを最初から計算してるのよ。
怖くないんじゃなくて、怖くなるような出し方をしてないだけよ。
あー、言われてみれば。
確かにコメントも「わかる〜」とか「好きです」ばっかりで、なんか盛り上がってるんだけど……全部同じ感じがしますね。
そう、みんな傷つきたくないから似たようなもの出して、似たような人が集まって褒め合う。
それ自体は別に悪くないんだけど、本当の意味で「創作してる」かというと、ちょっと違うと思わない?
では、本当の創作って何なんでしょうか?
自分でもわからないもの出す怖さを、ちゃんと感じながら出すこと、じゃないかしら。
誰かに刺さるかもしれないし、全然刺さらないかもしれない。
その本当にわからない状態で出すのが核心だと思うわよ。
それはその、しんどくありませんか?
そりゃ、しんどいわよ。
でもちゃんとやってる人って、そのしんどさがないと逆に不安になるみたいなところがあるの。
楽に進んでる時ほど、あれ、これでいいのかなって疑っちゃうの。
血を流してないと何か間違えてる気がする、みたいな感覚ね。
なんと言うかその……ドMというやつでしょうか。
外野から見れば、そう見えるかも知れないわね。
でも本人からしたら、そのしんどさを経由しないと辿り着けない場所があるって知ってるだけで、苦しみたいわけじゃないのよ。
なるほど、私が怖いのは、ちゃんとした怖さということでしょうか?
そうね。
ただその怖さをどこでどれだけ引き受けるかは、自分で決めることよ。
全部一気に賭ける必要もないわ。でもどこかでエイヤって跳ぶ瞬間は避けられないわ。
それは計算でどうにかなるもんじゃなくて、最後はもう、残念ながら気合いの世界ね。
……出してみようかな。
ええ。怖いまま出すのが、たぶん正解よ。
元の議論内容はもっといつも通りの理屈で武装したようなテイストだが、会話形式にする際に適当にキャラ付けを指定した上で、それをベースにもうちょっと口調を調整したのがサンプルの会話。
主張の大筋は大体は保持されてるが、当然のことながら論理密度は落ちている。しかしながら、主要な狙いであるところの「読み物化」はそれなりに出来ているのではないかと思う。
が、手間暇のほどはどうかと言えば、まあ確かに文章をゼロから書くよりは圧倒的に省力化出来てはいるものの、さりとてコピペで済むかと言われれば、やはりそこまで甘くはない。最低限の品質まで持っていくための手加工は必要ってことだ。
まあ後は使いどころだとかガワの問題だろうか。
んで結局のところ、最終的には元の議題がどういうテーマでどういう経緯でどういう着地かという話に帰結して、それって要するには、ゼロから書く時にネタを決めてどういう論理展開で書き進めるか、という話と一緒なんだわな。
まあやはり、そんなに旨い話は無い、ということだ。
どんなチャットでも記事化に耐えられるかと言えば、想像以上にそのままでは厳しいのではなかろうか。
つまんない結論だけど、そういうことだ。


コメントを残す