本サイトに以下のページを置いている。
これは一体何物だ、というのを少し補足説明しておこう。
1.成り立ち
そもそもの起点は、昨年(2025)あたりから個人的に書き始めたSF小説である。
特段、どこにも公開の意図も無く、同じく道楽としてのお絵描きソース程度に書いているわけだが、その中でちょっと、書いている内容を生成AIに分析させてみるとどうなるか?ということを試したのが事の発端。
まあ、同じことをやろうとした物書きの人も多かろう。
とは言え、こちとらエンジニアリングに携わっている人間であるので「既存の創作論っぽい尺度に合わせたような評価文」が出力されただけでは全く満足できなかったわけだ。
そもそもとして、評価軸が狭すぎるな、と。
そこから、生成AIと議論して、既存の創作論の射程範囲が限定されていることを論理的に解体していく。
書いている内容が、まあ所謂ネットで流行りの方向性とは全く合わない、言ってみれば紙ベースの書籍、それもハヤカワSFあたりを想定しつつ、さらには「その昔NHK教育で放映されてた15分アニメ」ぐらいのテイストも狙ったような代物なので、ネットの一般論で学習した生成AIにそのまま評価できるわけが無いのだ。
考えていくうち、創作論だの技法論だのが「実は読者のことを見てないんじゃない?」ということにも気づく。
作り手の都合でしか語られてないわけだ。
何と言うかそれは、作り手>読者、を絶対の図式としているようにも見える。
まあ、多くの創作論や技法論が、エンタメ作品を志向しているフシはあるので(もっと言えば、ベースにあるのが映像作品向けフォーマットと思われるので)、受け手はとにかく刺激に反応するだけの存在、という思想が前提になっているようにも見受けられる。
だがなあ、文章って、そんなのばかりじゃないだろう。
自分が読書をしている時に何が起きているか、ということに目を向けて、それを起こすのが文章を書くことに他ならないのではないか、という仮説を立ててみて、真正面のド直球で「読書体験」を考えていったのだ。
ちなみに、随分前に書いたこの考えもベースになっている。
2.フレームワーク論
起点の部分を、まずは「新しい創作論や技法論」ではなく、「読書体験」を主軸とすることに決めた。
この時点で、枝葉論に陥らないことが確定する。
ついつい素人さんが何かを仕組み化しようとすると、かなりの確率で無自覚なまま枝葉論に陥りがちだ。
これはまあ申し訳ないが、経験値とか思考の訓練とか、そういう領域での差である。
物事を抽象化して構造的に捉える視点をどれだけ鍛えてるかに依存する。
設計で言うと、上流というトップダウン的な視点から入るのか、下流というボトムアップ的な視点から入るのかの違いとも言える。枝葉論というのは言うまでも無く、下流でボトムアップ側である。
創作論だの技法論だのが、何を対象に扱っていて、何を目指そうとしているのか、どういう立場の人がどのタイミングで使うものなのか、みたいな視点を働かせられるかどうか、である。
そういう視点無しにいきなり新しく創作論だの技法論だのに手を出すと、何せそれらは下流側の代物であることがほとんどなので、それらを発想の起点としている限り、下流の土俵から出られない。下流の土俵に立っていることも気付けない、ということが確定してしまうのだ。そこでどんなに「多角的」とか叫んでも、自分がどこに立っているか自覚していなければアウトなのだ。
「読書体験」の話に戻ろう。
「読書体験」を主軸とする時点で、実はこれは一段階メタ視が入っていることが判るだろうか。
「読書」と言えば「文章とそれを読んでいる自分」の関係性で完結するのだが、「読書体験」になると、「その読書をしている自分」の中で何が起きているか、という関係性になる。これはメタ認知というやつで、認識のレイヤーが一段多いのだ。
つまり、書き手としても「描こうとしている物語」だの「今まさに文字で編んでいる文章」をターゲットとするのではなく「それを読んだ読者に何が生じるか」のレイヤーを意識することを指している。
創作論だの技法論だのが枝葉であるというのはそういうことで、本当に「読者ファースト」を標榜するならば、まず最初に気にするべきは「どんな構成で物語を書くか」や「どんな文章表現を書くか」ではないだろう。
「この物語や文章を通じて、読者がどのような体験をするか」でないといけない。
創作論だの技法論は、その体験をどうやって実現するか、という道具の一つに過ぎないわけだ。
この順番を間違えるとどうなるかと言えば「テンプレ通りで一応は成立してるだけの何か」が出来上がる。論理的にそうなる。
それ以上の何かが出来上がるケースというのは、実は書き手が意識的にか無意識的にか「創作論や技法論以上の何か」を持ち込んでいたからに他ならない。ただこれが形式知になっているかどうかは別問題。不可視化された「個人のノウハウ」として運用されていることがほとんどだろう。だから「書き手のセンスや才能」という一般論が絶えないのだ。
読者の中で何が起きるか、を雑に定式化しようとすると、まさに「二時間映画テンプレ」のようなものが出来上がる。雑とは言ったが、もちろん使う場面を絞り込んで、それを理解した上で使う分には、まさに一つのフォーマットとかフレームワークと呼ばれるような効率的設計メソッドまで昇華出来る。
問題は、それを理解せずに過度に一般化した場合だ。
世の中に溢れる「フレームワーク」というのは、大体がこの過度な一般化に陥っている。広める側がそもそもそういう感度を持ち合わせていなかったりする。
割を食うのは一般の書き手たちである。
世の中には「既存の何か」が溢れていて、良く似たことを考えようとした人もそりゃあ沢山居る。これは間違いない。同時に、普通の統計として考えれば、それは正規分布に近づいて行くわけで、そこそこレベルを偏差値60あたり、まあ適当に上位15%あたりで切ったとすれば、残り85%は「ありきたり」~「箸にも棒にもかからない」であるわけだ。
ここで上位15%を初手からいきなり「特別な才能の賜物」とか言っちゃうと、そういう人は85%側に立っている可能性が高くなる。
そうではなく、まずは85%側に立たないためにはどうするかを考える。
一番簡単なアプローチは、85%と同じ轍を踏まない、だ。
それが難しいのであれば、それはもう少なくとも今は土俵から降りなさいよ、という話にしかならない。厳しいけど、そういうことだ。
それをやったところで上位15%を約束するものではないが、少なくともド真ん中に空いている判りやすい大穴は当たり前のように回避できなきゃね、ということである。
3.何を考えたか
ここからの思考は、本サイトで公開している内容が示しているが、少しずつ補足を入れていこう。
生成AIと議論をしながら構築していったのは先に書いた通り。
さらには自分で書いた小説が、ちょうどネットに溢れている流行りからは外れていたのが逆に幸いして、分析項目を補強する助けになった。
それは逆説的に、生成AIが学習した一般的創作論の射程を浮き彫りにすることに繋がる。
これは実は誰でも出来るが、決定的なポイントは、とりあえず何の指定も無く生成AIに分析させた結果を「名のある先生の言った正解」などと捉えないことだ。
大量の一般論を学習しているのは間違いないが、しかしさすがに森羅万象すべてを網羅しているわけなどなく、さらにはネットに転がる情報も検索汚染が問題になる程度には偏っているのだから、まずは「視野の偏った奴がしたり顔で語っている」ぐらいから受け取るのが正解である。
もちろん、それが出来るにはある程度の持論と言うか、自分の中での評価軸が必要なので、もしそういうのが乏しいと自覚しているなら、生成AIの回答をさらに生成AIに「反論」してもらうと良い。これで少なくとも、主張の綱引き結果を並べることが出来る。
原理原則の話ばかりも何なので、具体的な話にもそろそろ踏み込もう。
生成AIとの議論から何となく「読書体験設計フレーム」というものが生まれるに至ったわけだが、起点にあったのは、既存の創作論の射程に偏りが見られたことである、というのは前述の通り。
具体的にはどのような偏りであったかと言うと、次のような特徴があったのだ。
- 没入の定義の偏り
- 感情語の直接使用を重視しがち
- 出来事の進行を重視しがち
- 未完成品を分析できない
特に閉口したのは「没入の定義の偏り」である。
これも色々と試して確信したのが、創作論の言う「没入」とは、劇場映像作品を想定している、ということだ。
つまり、とにかく自動的に物語がベルトコンベアのように結末に進むことが大前提であり、その外側の視点の介入は没入阻害要因であると断じているわけだ。
劇場映像作品ならば、確かにそれは正しい。視聴条件とも合致しやすい。
だが、読書にそれを持ってきて、果たして正しいと言えるだろうか?
読書中の条件を考えてみれば判るだろう。
完全に外界と切断した状態で読書していることって、どれくらいある?
読書なんてのは最も消費スタイルが多様なコンテンツである。自室で一人の状況も当然あるが、居間で家人が周囲に居り、テレビが流れている状況だって普通にあるし、図書館や喫茶店、電車やバスのように、公共の場で周囲に他人が思い思いに動いている状況も当たり前にあるだろう。
さらに読み進めるスピードも一様ではなく、後戻り禁止でもない。少し気になることがあれば数ページ前から読み直したって構わない。
常に最初のページから最後のページまで、一気に読み切るとも限らず、読書環境によっては移動中の時間を使って細切れに少しずつ読み進める、ということも当たり前で、むしろ一気に読み切る方が少数派かも知れないぐらいだ。
こんな体験構造に対して「没入」って何だよ、という話になる。
自分の好きなタイミングで現実に戻れるという特性こそが、読書の強みの一つでは無いのか。
その意味では、「没入」が切れることすらも「読書体験」に組み込まれていると考えないといけないのではないか。
こんな具合に、金科玉条のように扱われる評価軸は、いずれも「読書体験」の特性を鑑みると、そのまま安易に適用しちゃいけないものであることが次々と見えてくる。
感情語の直接使用だって、そりゃあくまで特定のジャンル、名指しで言うとライトノベルではそうなのかも知れないが、それこそ学校の国語の教科書に載っているような作品はどうだったかを考えてみれば良い。ライトノベル以外は正しく評価出来ないとか、評価語として論外だろうに。
そして書き手として最も失望するのは、途中状態に対する検出力を持っていないのが既存の創作論であることだ。
これも考えていくと、既存の創作論の多くは、その成り立ちが「完成品からの逆算」であることが見えてくる。
要するに、「成功した作品」から逆算して、その構造を説明したもの、でしかないということだ。
と言うことは、その論が期待するインプットは「完成品」に相当する代物でなければならず、途中の一章だけというのは、その論の射程外になってしまう。
しかし、書き手としては、そりゃあ書いている途中状態と向き合う時間の方が圧倒的に長いわけで、その間に分析できなきゃ意味が無い。書き上がってからでないと検証できないって、そりゃ何てウォーターフォールモデルですか?と言いたくなる。
このような不満点を一つずつ、生成AIと議論しながら潰していく。
手順はこうだ。
- 一般論的評価語が持つ暗黙の前提を明らかにする。
- 暗黙の前提が含んでいない観点を挙げていく。
- 定義を更新する。
- 更新した定義で自作小説を分析させ、その分析に齟齬が無いか確認して、問題があれば1に戻る。
とにかく、一般論的評価語の解像度の低さを洗い出し、より解像度の高い定義に置き換えていく、という作業である。
その結果、大筋としては齟齬が解消できたのが、公開しているフレーム内容である。
4.使いどころ
上記の通り、一般論として言われる文章評価語にツッコミを入れ倒して生まれた代物なので、必然的に一般論に慣れた人にとっては異次元の射程での分析が出来る。純文学のような構造も射程に含んでいる。
また、ネットにおけるスケール志向、すなわち「売れ線に合致しているかどうか」は一切関知しない。
あくまでフラットに、どのような体験構造になっているか、のみを対象として分析を行う方針である。
フレーム説明ページでも言及しているが、これは書き手でも読み手でも使えるものとしている。
むしろ、書き手と読み手が、共通の言葉で読書体験を語れるようになるためのフレームとしている。
既存の創作論や技法論が出来なかったのがこのへん。
「論」と言いながら、結局は印象論に陥ってしまい、さらにはそれぞれが枝葉論なもんだから、書き手と読み手のスタンスのズレを全く吸収できず、最終的には水掛け論に終わりがちだった。
こちらはあくまでまずは「読書体験」という一段上のレイヤーを扱ってるので、まずはどういう体験を狙って書いたか、どういう体験が生じ得る文章になっているか、というレベルでの語りになる。
それがあれば、仮に読み手がイマイチ乗れなかったとして、どのようなミスマッチが起きていたかを、同じ言葉で説明出来るようになる。
例えば、「感情的同化を期待していたが、この文章は認知的同化主体だった」という具合。
各体験軸(キャラ同化、比較往来、エピソード体験)もそれぞれ等価な位置づけなので、必ずこの軸を重視しないといけない、という分析にもならない。ジャンルによって、典型的構造として重視される軸はあれど、あくまで典型的構造でしかないので、当然のことながら異なるアプローチでも成立可能であり、それこそがその作品の独自性に繋がるものとしている。
書き手と読み手に同じ言葉が与えられれば、評論だってもっと建設的になるだろうし、教育だってより納得感を高められるし、書き手の意図を説明することも容易になるだろう。
出版側だって、文学ジャンルごとの典型的構造を説明出来れば、その読み方ガイドのような伝え方でもって、読書体験という観点から様々な作品を紹介できるようになるはずだ。
こんな感じで、一段上のレイヤーから攻めることで、適用範囲の広いフレームが提案できるという寸法。
個人的な思い付き起点ではあるが、まあ興味があれば一度試してもらえれば幸いである。
5.分析結果サンプル
最後に、実際に読書体験設計フレームプロンプトを使って、自前小説を分析させた結果を掲載する。
↓プロンプトはこれ。
全編ではなく、あくまで冒頭一章のみ、話としては当然何も完結しておらず、章としての区切りはつけただけの、文庫本にして25ページ程度の長さを分析させた結果である。
ちなみに元文章は今のところ公開する予定は無い。
元文章無しでも、どういう性質の文章かは何となく推し量れる程度の分析結果が出力される。
また、生成AIエンジンを問わず使用可能。
今回のはclaudeを使用したが、ChatGPTでもGeminiでも大筋の分析結果はほぼ近似した。細かい差異は当然あるものの、主要な体験軸が何か、という点はいずれの生成AIでも共通していた。(もちろん、分析対象の文章によりけりではある)
↓結構長いので折り畳んでる。
0. 主要な対話様式の判定
主要様式:同化的対話(認知的同化優位)+ 応答的対話の混在
このテキストは同化的対話が主幹だが、均質ではない。秋貴の内的モノローグ・推理プロセスを追体験させる認知的同化が基盤として機能しており、その上に、コメディ的なやり取りへの応答的対話(ツッコミ的鑑賞)が重なる二層構造になっている。
主要な切り替え点は三箇所ある。
①「諸君、見た目の第一印象という強力な引力に安易に屈してはいけない」という語り手介入で応答的対話へ移行、②古本屋到着・二人の少女登場で再び認知的同化優位へ、③「三匹のやぎのがらがらどん」想起など内的モノローグが深まる終盤で思索的対話が加わる。
三様式が混在しているが、全編を通じて認知的同化が底流として機能しているため、同化的対話を主と判定する。
1. 三軸の配分と主軸
主軸:キャラ同化(認知的)
副軸①:比較往来(応答的対話と重なる機能で動作)
副軸②:エピソード体験(低〜中。状況変化の牽引よりも認知的同化の舞台として機能)
2. 各軸の実現手法
■ キャラ同化(認知的)
このテキストの設計上の核。秋貴の思考を追体験させることが最優先されており、実現手法は複数の層で働いている。
思考の可視化と速度操作
秋貴の内的推論が「最も合理的な解釈である」「まさかビデオ試写室の〜」という形で段階的に展開され、読者は秋貴と同じ情報・同じ順序で状況を処理する。情報の後出しと早苗の「先回り」による想定外が規則的に繰り返されることで、この追体験リズムが安定して持続する。
早苗との関係モデルの即時構築
「第六印象」という概念の導入により、読者は秋貴の対早苗認知フレームを短時間で受け取る。以降のやり取りはこのフレームを通して処理されるため、読者の認知コストが削減され、同化の摩擦が低い。
推理の明示的な展開
終盤の「早苗のやり取りを根拠に別の目的があると推論する」くだりは、推理小説的な認知的同化の構造を取っており、このテキスト内で認知的同化が最も密度高く実現されている箇所である。
■ キャラ同化(感情的)
認知的同化経由の間接誘発が主で、直接誘発は補助的。
認知的同化が蓄積された状態で「捕食者の巣」「面接のイメージがジャストフィット」「止まるとまずい」などの感情的事態が挿入されることで、秋貴の困惑・苦笑・緊張が読者に伝わる。ただし感情の説明は少なく、認知追体験の蓄積が十分でない読者には感情的同化が成立しにくい設計になっている。
早苗への「半ば自虐的」「脳の体幹を意識的に引き締めた」などの描写は直接誘発の機能も担うが、説明的すぎず描写的すぎない中間の抑制度に留まっており、感情の喚起よりも認知フレームの補強として機能している印象が強い。
■ 比較往来
応答的対話との重なりで機能する比較往来と、思索的対話としての比較往来の二種が混在している。
応答的対話と重なる機能(お約束・常識照合)
「諸君」語りかけ、「第一印象〜第六印象」という解説的枠組みの提示、「女三人寄れば姦しい」の引用、「三匹のやぎのがらがらどん」への連想。いずれも作品外の常識・文脈を召喚してコミカルな落差を生成しており、読者のツッコミ・鑑賞を促す。
思索的対話としての機能
「三人組は定番の構成」「トロルは最後に粉砕される」などの連想は、秋貴の内的思索として描かれているが、読者が同じ連想資産を持つ場合は比較往来として深まる。ただしこれは文脈資産依存であり、普遍的な成立は保証されない。
語り手介入の機能
「諸君〜安易に屈してはいけない」という語り手的な視座の操作は、読者を一時的にキャラ同化から引き出し比較往来を促す装置として機能している。この切り替えが明示的であるため、混乱よりも軽快なリズム変化として受け取られやすい。
■ エピソード体験
エピソードの連鎖はあるが、状況変化への貢献が非均質。
バイト先への道行き→古本屋到着→店内での人物紹介→面接→議論への合意という一連の流れは、テキスト冒頭から末尾にかけての状況変化として機能している。しかし各エピソードのウェイトは秋貴の認知的処理の密度に依存しており、客観的な出来事の進展よりも内的処理の展開がページを占める。このため、エピソード体験の純粋な強度は中〜低に留まる。
3. 意図的に抑圧されている軸とその機能
感情的同化の抑圧
秋貴の感情は説明ではなく認知的フレームの変化として提示される(「脳の体幹を意識的に引き締めた」「止まるとまずい」)。これは感情的同化を直接狙わず、認知的同化の蓄積を経由した間接誘発に絞ることで、秋貴の人物像—感情より論理を優先する—と読書体験設計を一致させる機能を持つ。
エピソード牽引力の抑圧
出来事の進展それ自体に牽引力を持たせる設計になっておらず、「次に何が起きるか」よりも「秋貴が今何を処理しているか」に読者の注意を誘導する。この抑圧により、認知的同化への集中が維持される。
4. 軸同士が相互作用している箇所
認知的同化 ↔ 比較往来(応答的):「第四印象」前後
「諸君、見た目の第一印象という〜」の語り手介入が一時的に比較往来(応答的)へ引き出し、その後の「第四印象あたりが秋貴のツボに入り」で再び認知的同化へ戻る。この往復が軽快なリズムを生んでいる。
認知的同化 → 感情的同化:終盤の推論確認場面
「早苗がいつもこうする」「どうやら的は外していなかったようだ」という認知的確認が積み重なったのちに、秋貴の「止まるとまずい」という判断が来る。認知的同化の蓄積が閾値を超えた地点で感情的同化が誘発される、間接誘発の典型的な構造。
比較往来 → 感情的同化(可能性):「三匹のやぎのがらがらどん」連想
この連想に乗れる読者には、秋貴の状況(巣に捕まった? 粉砕される?)への滑稽な共感が比較往来経由で発生し得る。ただし文脈資産依存のため普遍的成立は保証されない。
サマリー評価
主要対話様式: 混在(認知同化主幹にコメディ応答的が重層)
キャラ同化(認知的): 高(思考可視化・推論追体験が全編を貫く)
キャラ同化(感情的): 中(認知経由の間接誘発主体・直接誘発は補助)
比較往来: 中(コメディ応答的と思索的の二機能が混在)
エピソード体験: 中(状況変化は進むが認知処理が前景化)
エピソードのテイスト: コミカル・日常
突出した箇所:「三匹のやぎのがらがらどん」連想〜麻耶子の不敵な笑みまでの終盤。コミカルから微かなサスペンス的緊張への転調が最も密度高い。
体験設計の近いレーベル: 電撃文庫(認知的同化主軸+コメディ応答的副軸の構成比)、ガガガ文庫(語り手介入による距離操作)、星海社FICTIONS(推論・論理処理を主体とするキャラ同化設計)
想定読者像:
主軸の体験設計が機能するのは、他者の思考プロセスを追体験すること自体を娯楽として享受できる読者で、論理的判断の蓄積と外れが繰り返されるリズムに快感を感じるタイプ。副軸の比較往来(コメディ的)が機能するためには、ライトノベル的な語り手介入の様式・「三人組」定番フォーマットなどの参照資産が一定程度あることが条件となる。認知的同化と感情的同化が非対称に設計されているため、感情共感を主軸として読む層には体験上限圧縮が構造的に生じる。
読者層が重なるレーベル: 電撃文庫・ガガガ文庫・MF文庫J(認知処理と軽コメディを同時に楽しむ読者層)
各軸主軸読みの体験仮説:
■ 認知的同化を主軸として読んだ場合
設計と合致
■ 感情的同化を主軸として読んだ場合
設計との摩擦:感情の直接提示が少なく、認知追体験の蓄積なしには感情的事態が薄く感じられる。キャラへの感情的愛着より先に「面白い思考パターンの人」という評価が来るため、感情同化の入口が遅い。
別な体験の成立:早苗の「満更でもない」描写や麻耶子の初の笑顔など感情的瞬間を拾い読みする体験は成立するが、連続した感情的同化の流れとしては断絶が多い。
■ 比較往来を主軸として読んだ場合
設計との摩擦:比較往来の仕掛けが散発的で密度が低く、思索を持続的に展開させる起点が少ない。語り手介入が主な比較往来装置だが、その後すぐに認知的同化へ引き戻す設計のため、往来の余韻が短い。
別な体験の成立:コメディの「お約束照合」として比較往来的に処理することは可能で、この読みに特化した場合は軽快な喜劇を楽しむ体験として成立し得る。
■ エピソード体験を主軸として読んだ場合
設計との摩擦:出来事の進展自体の牽引力が弱く、「次の場面へ」という牽引よりも「今の処理を追う」という構造のため、エピソード主軸読みでは冗長感が出やすい。会話と内的処理の比率が高く、客観的な事件・行動の密度が低い。
別な体験の成立:バイト先到着→謎の少女登場→面接→合意という外形的な進展を骨格として追う読みは成立するが、それ単独では体験が薄く、補助的位置に留まる。
複数主軸の並立可能性:
認知的同化とコメディ的比較往来(応答的)は設計上も実態上も並立しており、むしろこの二軸が相互補強することで「論理追体験の楽しさ+ツッコミの快感」という複合体験が成立するのがこのテキストの純度であり、二軸を分離するとどちらも強度が下がる構造になっている。


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